秋雨
道に迷った。それてしまった。雨が地上に大きな染みを作っていく。

染みは一瞬にして辺りに広まって、私の道しるべを見えなくしてしまった。

その雨垂れの恩恵を受けてぬらぬらとしたヤモリが、

さも面白そうに手足をバタバタと動かしながら目の前を小走りで通り過ぎていった。

傘はなかった。けれども雨宿りはしたくなかった。

身体から熱が奪われてゆく。その感覚を、熱の移動をただじっと身を固くして感じ取っていた。

何処へというあてもないのに、急いで進んで行かなければならない気がした。

「…だから秋は嫌いなのよ」

ずうっと遠くの薄暗い先の方から、誰かの呟きが聞こえた。

実際には遠くの呟きなんてこんな鬱蒼と生い茂った木々の葉に垂れるさみしい雨音によって掻き消されてしまう。

ねっとりとした舌使いまで想像される生々しい声だった。

そう、私も秋が嫌いだった。

このやるせないほどの淋しさに耐えられるだけの力を私は持ち得ていない。

だから、やりのように鋭く押し寄せる淋しさにただぎゅっと身を小さく丸めて、

せめてこの心だけは傷つかぬように、と守ることしかできない。

傷を負わない秋は今までに一度も、なかった。

 

随分と長い間独りで歩いているような気がした。

随分と長い間足を止めていないような気がした。

多くの人が私の横を通って行った。

スーツ姿のおじさんやハイヒールのおねえさん、ランドセルの小学生たちや、セーラー服。デブや、やせ。つけまつげ、めがね、マスク。ピンクに黒に、橙色…

どの人も特徴的だったし、どの人もおんなじだった。

彼らの顔をひとつひとつ丁寧に思い出せるようでもあったし、全くおぼえていないようでもあった。
びっくりするほど大きな黒い鞄を持ったが木の下で雨宿りをしている。

携帯電話を忙しなくかちゃかちゃと触っている。着信を知らせる音を聞くとすぐさま耳に当てる。

電話を終えた彼は、鞄を抱えて走り去っていった。


雨足はひどくなる一方だった。

私は相変わらずあてもなく歩いていた。

景色は殆ど変わらない。薄闇の森の中、車が一台通れるほどの道幅の、一本道だ。

一本道をただただ真っすぐ歩いてきただけなのに、

ヘンゼルとグレーテルの童話のように道しるべをつけていないことにとてつもない不安を覚えてしまう。

もしかしたら行くべき道を見落としてしまったかもしれない。

実は気がつかないところにもっと大きな道があったかもしれない。

自分でも気付かないうちに細い細い道があるのを見逃してしまったかもしれない。

……などと考え始めるともう自分が足の指の先からガタガタと崩れるような圧倒的な不安の渦に飲み込まれていった。

 

人はうまれた瞬間から不安とともに歩むことを余儀なくされる。

不安は赤ん坊を泣かせ、涙は不安を取り除き、母親を呼んだ。

そのようにして安心が広がり不安は音を立てずに気持ちの底の方へ沈んでいった。

不安の沈みがあまりにも静かすぎるせいで私たちは勘違いしてしまうのだ、

「不安は消えた」と。

年齢を重ねるにつれて不安はどんどんと表に出ることを拒むようになる。

実体のみえない影になっていく。

心の奥まった海底へと身を潜めていった。

流行らないお店がいつの間にか大通りから一見しただけではわからない裏通りに、民家の間にひっそりと店舗移転を繰り返すように。

だから私たちは不安の存在を忘れ去ってしまう。

いつもいつも歩く大通りの閉店セールや開店には気付くのに。

それだからいつも手遅れになるのだ。

不安に気付くころにそれはもう大通りまで溢れて来てしまう。手のほどこしようのない状態になってしまうのだ。

その対処に私たちはいつも困惑してしまう。

だから私は小道を見つけたらそこへ入るように心がけている。

不安が急に押し寄せてくるのを避けるためにね。

 

小道の奥へ奥へと入っていくとそこには時代錯誤の古ぼけた小さなお店がある。

路地のもっと奥の方、注意深く目を凝らさないと見えないところにある埃のかぶったようなお店。

そこにはおんなじように昔からそのお店の中で生きてきたようなおばあさんが

お店の奥で小さな小さな音になったテレビを子守唄に船をこいでいる。

いろんな色の毛玉が付いたピンクの鍵編みショールを肩にかけて船をこいでいる。

お店の横引き扉をあけると扉に取り付けられた鈴がちりりんと控えめに鳴る。

おばあさんの船はその音で沖から戻ってくる気配はない。

ただゆっくりとなった時間の流れがあの実家のお仏壇を開けた時のような香りとともに鼻孔をつついてくる。

入口で心の準備、深呼吸。深呼吸をしてさ、

おばあさんの肩をたたく、トントン。

生身の温かさと柔らかさが手に伝わって安心する。

分かっていたことだけれどもやっぱり安心する。

そうするとおばあさんは船を沖から岸へゆっくりと進んできて、

一分経とうかとする頃、意識が岸辺に括りつけられる。

おばあさんはそうして私のことを時間をやや長く見詰め、状況を理解し話し始める。

「あら、お客さんね、いらしてたのね。」

そうしてチェアーから降りようとする彼女を止めてお話が聴きたいのと言う。

すると、少女のような笑みを浮かべて喜び、哀しそうにこっちを睨んだ。

彼女は私の中の「不安さん」だから。

おばあさんはそれまでの時間の流れよりもずうっと速いスピードであれこれを話し始める。

一人の夜がいかに淋しいか、淋しさがどれだけ深い青色なのか。

悲しみの本当の色とか、泣いてばかりの魔女に出会った話とか、お星様の囁きがどれだけ小さくて聞こえないか。

話が話を呼んで話しかけの話がどんどん積っていく。

毛糸が絡まるように、もじゃもじゃのお話がどんどん転がっていく。

おばあさんは空の上のそのまた上にいる大事な人の話を始めて泣きだした。

静かな静かな涙だった。

無音の涙が亀の速さで目から垂れていく。

おばあさんの語りに私はその都度、うなづくことしかできなかった。

涙するおばあさんの背中をさすることすらまともにできなかった。

そうして彼女の話が終わる頃、

レモネードのカンカンから茶色い粉末をスプーンですくって、ポットのお湯を注ぐ。

湯気で辺りがもわっとあたたかくなる。

からからとカップとスプーンがぶつかり合って立てる音が私と彼女を現実への帰り方を教えてくれる。

少し濃いめに作ったレモネードを彼女に差し出し、彼女が落ち着くのを待つ。

そうして幾分か時間が過ぎるのをただただ待った。

カチコチとなる時計の音に身をゆだねて。

冷めたレモネードがからっぽになる頃、

私はおばあさんを驚かせないように注意を払いながら恐々と丸椅子から腰を浮かせる。

何代も昔の戦闘ヒーローの絵が描かれたカバーがかかっているやつだ。

狭くて小さい店内を見てまわる。

そうしてお店の中にある、やっぱり埃をかぶっている売り物のたちの中から、

古ぼけたパッケージの石鹸を買って帰ることにする。

何個か並ぶそれの中でも、一番色褪せたものを。

おばあさんにそう声をかけて、お財布の中から300円だけ出して手渡しで代金を払う、

そうしてお店を出る、

「もうすっかり時間が経ってしまったようだ」

 

相も変わらず雨は降り続けていた。

ただ夜らしい冷たい空気が肺の中をくすぐる。

私はその石鹸を手に再び通りへと戻る。

狭い店内にいたせいなのだろう、少しだけ道幅が広くなった気がした。

今日はあたたかい野菜のスープを作ろう、

冷蔵庫のなかにあるものを頭に浮かべながらゆっくりと道を歩く。

 


(2011/11/25)